俳優として数々の名作に出演し、日本を代表する実力派俳優として知られる阿部寛さん。
そんな阿部寛さんですが、実は俳優になる前にモデルとして活躍していたという噂があります。
阿部寛さんは本当にモデルだったのでしょうか?また、どのようにして俳優として成功したのでしょうか?
そこで今回の記事では、
- 阿部寛さんのモデル時代の実態
- 阿部寛さんの俳優としての成功の軌跡
主にこの2つに迫っていきます。
リサーチしてみたら、阿部寛さんのモデル時代の活躍ぶりや、俳優としての苦難と成功の秘話が明らかになりましたので、ぜひ最後まで読んでいってください!
それでは、早速本題に入っていきましょう!
阿部寛はモデルだった?

「優勝すれば車がもらえる」——その一心で応募したコンテストが、後の名優・阿部寛さんの芸能界デビューの扉が開きました。
阿部寛さんがモデルデビューしたのは、大学生だった1983年のことです。
きっかけは、姉の勧めで「集英社第3回ノンノボーイフレンド大賞」に応募したことでした。
実は、阿部寛さんが応募した理由は意外なものでした。
なんと、優勝賞品の車が欲しかったからだそうです!
コンテストの優勝賞品が車だったので、阿部寛さんは商品目的で応募したそうです。
引用元:オーディションなび
そんな動機で応募したにもかかわらず、阿部寛さんは見事グランプリを獲得。
これをきっかけに、阿部寛さんはモデル活動をスタートさせました。
デビュー後、阿部寛さんはファッション誌『メンズノンノ』の専属モデルとなります。
そして、驚くべきことに創刊号から約3年半(3年6ヶ月)にわたって43号連続で表紙を飾るという快挙を成し遂げました。
この「同じ雑誌の表紙を連続で飾った回数」は、ギネス世界記録にも認定されています。
創刊号から43号まで連続で表紙を飾った記録はギネスに登録されているほど。
引用元:NEWSポストセブン
189cmという長身と日本人離れしたルックスで、阿部寛さんは当時の若者たちからカリスマ的な人気を集めました。
振り返ってみると、人生の大きな転機は時に思いがけない形でやってくるのものだということを、阿部寛さんの歩みは教えてくれたようです。
俳優への転身と苦難の時代

阿部寛さんは華やかなランウェイから演技の世界へと進みますが、成功の裏に隠された挫折の日々を過ごします。
華々しいモデル時代を経て、阿部寛さんは俳優への転身を図ります。
大学卒業と同時に、1987年の映画『はいからさんが通る』で俳優デビューを果たしました。
しかし、俳優としての道のりは決して平坦ではありませんでした。
当時は「モデル出身俳優」への偏見があったり、身長が高すぎることで女優とのバランスが取れないなどの理由で、俳優としての仕事は減少。
人気も低迷し、一時はパチンコで生計を立てていた時期もあったそうです。
さらに、バブル崩壊の影響で投資にも失敗し、多額の借金を抱えるなど、阿部寛さんはどん底を経験しました。
再起と俳優としての大ブレイク

阿部寛さんは大いなる転機を迎えます。
どん底から見た成功の景色を紹介します。
苦しい時期を乗り越え、阿部寛さんは「どんな役でも挑戦する」という姿勢で、脇役や名前のない役にも積極的に出演しました。
不遇の時代を過ごしていた93年、つかこうへい原作、工藤栄一監督の「リングリングリング・涙のチャンピオンベルト」に助演。
引用元:キネマ旬報
そんな努力が実を結び、1993年の舞台『熱海殺人事件・モンテカルロイリュージョン』で注目され、俳優として再評価され始めます。
そして、阿部寛さんの俳優としてのキャリアを決定的に変えたのが、2000年のドラマ『TRICK』での主演でした。
この作品で阿部寛さんは大ブレイクを果たし、以降は『結婚できない男』『テルマエ・ロマエ』など、主演作が次々とヒットしていきます。
特に『テルマエ・ロマエ』では、阿部寛さんの日本人離れした風貌が話題となり、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞など数々の賞を受賞。
個性派俳優としての地位を確立しました。
まとめ
今回は、阿部寛さんのモデル時代や、俳優としての成功の軌跡についてお伝えしてきました。
阿部寛さんのモデル時代は、『メンズノンノ』の表紙を43号連続で飾るなど、華々しい活躍をしていました。
また、俳優としての成功の軌跡は、モデルから俳優への転身後の苦難を乗り越え、『TRICK』での主演を機に大ブレイクを果たしたことでした。
阿部寛さんの多彩な才能と努力の軌跡は、多くの人に勇気を与える素晴らしい物語ですね。今後の阿部寛さんの更なる活躍が楽しみです。
それでは、ありがとうございました!
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